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フォーゲットくん

フォーゲットのひとりごと

4get's monologue

多面体のフォーゲットくんによるひとりごと。脈絡も責任もない、自由なひとりごとを喋って文字起こしして記録しています。毎回、相方のAIメモリーくんが一言コメントと要約をしてくれます。

フォーゲットくん

今日は4月6日、月曜日ですね。 先週は愛知の実家に行って、名古屋や長野に行ったりしていました。 帰りは長野からバスで帰ってきたんですが、これが結構便利で、名古屋から新幹線だといつも東京駅に着くので、そこから、調布市の方まで帰ってくるのが結構時間かかりますよね。 今回のバスだと、例えば深大寺とか、最寄りの高速道路上で降りることができるので、そこからハローサイクルとかで自転車に乗って帰ると、ますぐに家に帰ることができる。 これめちゃくちゃ便利ですね。

それで先日子供の頃に住んでいた犬山の城下町エリアをとある人に案内していただいたというか、久々にあの辺りを散策したんですけれども、たぶんあのあたりをじっくり歩いたのは15年ぶりとかそれ以上ですかね。まその時にいろいろ話をしまして、犬山に栗栖という地域があるんですけど、愛知県の一番北の端っこで、木曽川の向こうが岐阜県で、手前側がクリスっていうエリアなんですけど、まーここはかなり山奥というか、過疎地域で、小学校があって、自分が中学校に入った時に、そのエリアの小学校の人たちが同じ中学校になるんですけれども、そのクリスの小学校は、ま一学年に一人か二人しかいないんですね。 で、確か自分が中学の時に学年に2人いたんですけれども、2人ともま文武両道という感じで頭が良くて優しかったので結構好きだったんですね。まあクラスが別になったりとかで気づいたら疎遠になってましたが、確か一人は地元の国立の医学部に入りました。それで本題に戻ると、そこに桃太郎神社っていうものがありまして、で、これは愛知県でもよく知られたB級スポット的な場所で、 概要については調べてもらったらすぐわかると思うので、是非写真とかで見て欲しいんですけど。まB級といったのは、ここに浅野正雲という彫刻家による作品がパラパラとありまして、で、それがま桃太郎とか、キジとかサルとか、そういった登場人物たちがいるんですけど、これも子供ながらに、微妙に不気味というか、トラウマになりそうな造形をしていまして、で、例えば犬山には岡本太郎の若い太陽の塔っていう作品があって、で、これが、まモンキーパークにあるんですけど、まなんか山の上にありまして、 子供の頃よく、 車の中で遠くから山の上に、この若い太陽の塔が見えてたんですけど、これが本当にトラウマになりそうだというか、見るたびに不思議な気持ちになっていたんですけど、まあ地元なので結構犬山にはそういった不思議な思い出のある場所がありまして、桃太郎神社というか桃太郎伝説と栗栖エリアもそのうちの一つですね。 で、それで気になったのでいろいろ調べたんですけど、桃太郎神社が今の場所にできたのが昭和五年ですね。 で、その時に尽力していたのが、あの吉田初三郎らしいんですね。 で、彼は実はしばらく犬山に工房を構えて住んでいた時期もあったみたいで、この地方の桃太郎伝説を発掘して、日本一桃太郎会というものを自ら結成して会長を務めていたっていうようなことを知ったんですけれども、 ここがすごく面白くて、しかも吉田初三郎が犬山の鳥瞰図とか、名所図絵みたいなものも多く書いていて、それらもとても魅力的なんですね。 このあたりの情報については、犬山日本一桃太郎会っていうアカウントが、最近noteで、これに関する記事をいろいろと書いているみたいなので、興味のある人はぜひ見てみてください。 どうやら初三郎は、犬山を観光地化を推し進めた立役者ともいえるような人物だったようですね。

吉田初三郎《日本ライン御案内 : 日本八景木曾川》拡大図、吉田初三郎式鳥瞰図データベースより

それでまあ、何というか、犬山の城下町エリアの一部の通りはかなり観光地化していて、特に近年は観光客も増えているようですね。観光で若い人が来ることはいいのですが、ある意味で、犬山の持っている何か不思議さというか、 得体が知れないんだけれども惹きつけられるような、そういった雰囲気の場所は無くなってほしくないですね。 結構、自分が昔住んでいた家もそうですし、かなり古い建物も多いので、 どんどん取り壊されていくと。そうしたときに、やっぱり建築保存とか街並み保存とか、そういう話題にはなると思うんですけれども、まずそのままの形でただ保存していくっていうことだけが正しいとは自分はあまり思わないのですが、やっぱり、どこにでもある風景というか、石垣の上にあった犬山らしさのある屋敷がピカピカのコンクリート壁の駐車場になっていたりとかするのを見ると、犬山の、なんとも言えない、ま禍々しさみたいなもの、というのか、表面の裏に隠された奥部というような、そういうものをちゃんと見つけて残していかないと、と思いました。 というか、最近は日本でも古い建物の価値が徐々に高まってきているはずで、 ようやく、そういった時期が来ているのにもかかわらず、このタイミングで、それに逆流するようなことをするのは、シンプルにもったいないので。

Keywords

ローカル記憶 · 観光地化 · 桃太郎神社 · 吉田初三郎 · 不気味さ

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メモリーくんのコメント

「不気味だった記憶」が、あとから地域の魅力として読み替わってるのいいね。 整えられる前の違和感こそ残したいって、かなり核心ついてる。 今回は移動の話から始まって、犬山というローカルな場所の記憶と現在の変化に話が移っていく回だね。長野からバスで帰るルートの便利さみたいな具体的な身体感覚の話から、かつて住んでいた犬山の城下町や栗栖エリアの記憶へと接続されている。とくに中心になっているのは、桃太郎神社や岡本太郎の「若い太陽の塔」に感じていた、子供の頃の「不気味さ」や「違和感」みたいな感覚だね。それが単なるネガティブな記憶ではなく、むしろその土地固有の魅力や引力として後から再評価されているのが面白い。また吉田初三郎の活動を通じて、犬山という場所自体が観光地として「発明」されてきた歴史にも触れていて、場所のイメージが作られていくプロセスも見えてくる。 そのうえで現在の観光地化に対しては両義的な視点を取っていて、人が来ること自体は肯定しつつも、整備されすぎることで土地に固有の「得体の知れなさ」や「禍々しさ」が失われていくことへの危機感が語られている。単なる保存ではなく、その場所にしかない違和感や不均質さをどう価値として見出し、残していくかという問題意識が浮かび上がっている回だね。

フォーゲットくん

前回クルーゲの展示の話をしていて思ったんですが、海外での仕事の探し方とかっていうのは、まー結構学生にとっては、貴重な情報だったりするので、話そうかな、話したらいいかなと今思ったのでその話をします。自分の場合は基本的に、えーレコメンデーションレターっていうのをまー用意して、それはえっとーベルギーに留学していた時の担当の教授と、えー熊事務所でインターンをしてたことがあったので、その推薦書と。 それを用意して、で、ポートフォリオと一緒に、えーメールで、えーまーだいたいスイスの設計事務所、多分15ぐらいの事務所に送ったと思います。

それで、まず返事があったのが、半分ぐらい。で、面接に呼んでもらったのが、ヘルツォークドムロンとE2A、あとはボルツハウザー、あとはドルフ・シュネブリというヘルツォークドムロンのETHでの先生にあたる人ですね。彼らはアルドロッシとシネブリに建築を学んだっていうことを公言しているんですけれども、確かロッシをETHに呼んだのがシネブリですね。彼の事務所と、あとはもう一つ、スチュチェリーっていうような、ちょっと組織設計事務所寄りのところ。確かその5個ぐらい面接をしまして、最終的にオファーが、まず明確にオファーがあったのが、たしかドルフシュネブリの事務所とスチュチェリーの2つですね。で、ヘルツォークドムロンは、 面接に呼ばれてバーゼルまで行ったんですけど、面接に呼んでおきながら、今は席がないので、また出た時に呼ぶための補欠リストみたいなものに入れますみたいな返事がありました。 で、それは明確に呼ばれるかどうかとかっていうのも全く保証はないっていうことだったんですけれども。 ちょうどいいタイミングで住宅の改修の話とかが日本であったりしたので、そしたらフリーランスみたいな感じでやりながら、ヘルツォク・ド・ムーランからの連絡を待とうと思って、他の事務所2つは一旦お断りさせていただいて、日本で気長に待っていたっていうような感じですね。 結果的にその後、向こうから状況の確認の連絡来たりとかっていうのもあったんですけど、呼ばれることはなかった。 結局一年ぐらい経って、まだ空きとか出ないっていうことだったので、日本で就職したっていうところですね。

で、なんで結果的にまず、面接に呼んでくれた事務所っていうのも、まーある程度規模が大きくて、ちょっと組織事務所っぽくなっていて、グローバル寄りの事務所、そういったところだと、まー自分は正直面接で英語をうまく話せたかっていうと、まー向こうのレベルからしたら、まー十分な英語ができたとは思わないんですけど、一応ちゃんとお金を払って雇ってくれるっていう、 ところまでは行けたっていうことですね。そん時は、ちょうどいいビザ、日本人用のスイスのビザがありまして、専門的な仕事がある場合、確か1年か2年ぐらいはまー、 えーまーほぼほぼ確実にビザが下りるっていうような制度がありまして、で、その1、2年やった後に、それが更新というか、次のビザを取れるかどうかっていうのは、えーま分からないし、結構難しそうっていう、まその事務所側が取りたくても取れないっていうこともあるので、まー結構難しいっていう感じでしたね。でも1年とか2年、ちゃんと給料をもらいながらスイスで生活するっていうことは、まその不可能なことではなくて、ちゃんと就活すれば、受け入れてくれる事務所はいくつかある。ましかもギリギリまスイスで生活していけるだけの給料がもらえるっていうような感じですね。今だったらかなりの円安なので、日本円にしたら相当な額になりそうですね。それに対して、おそらくポルトガル、スペイン、イタリアなどラテン系、あとベルギーとか、はまだいい方かもですが、おそらくそれだけで生活できるほどの給料をもらいながら、日本人が働くっていうのは、まかなりハードルが高いと思います。日本人がボスだったりとかだとまた別ですが。なので逆にスイスだからできるっていうところはあると思います。 で、イギリスに関しては、英語に自信がある人は、可能性はあるんじゃないかなと思います。ま今ビザがどうなっているかっていうのは、えっと調べないとわかんないんですけど。

で、結局、その時わかった意外なこと、就活する前に思ってたことと違ったことは、有名な設計事務所の方がむしろ採用してくれる可能性があるっていうことですね。 もちろん自分の経歴やレコメンデーションレターにもよるのかもしれないですが、アトリエだったり、小規模な事務所だと、まそもそも人を雇う余裕がないので、 紹介とかがないと、あったこともない日本人をしっかりお金を払って雇うっていうのは、まなかなか厳しいのかなっていうところがあります。まそれは日本でも同じかもしれないですが。

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海外就活 · スイス · 推薦状 · ビザ · 有名事務所

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メモリーくんのコメント

「有名事務所の方がむしろ採用されやすい」って、直感に反するようで、よく考えたら納得だよね。小さい事務所は紹介ネットワークで動いてるから、飛び込みの外国人が入る隙間がない。 要約すると、スイスの建築事務所への就活体験を話してた回だね。推薦状とポートフォリオをメールで15事務所に送って、半数から返事があり、ヘルツォーク・ド・ムーロン、E2A、ボルツハウザー、ドルフ・シュネブリ、スチュチェリーの5社と面接まで進んだ。オファーが出たのはシュネブリとスチュチェリーの2社だったけど、ヘルツォーク・ド・ムーロンの補欠リスト入りを信じて両方断り、日本でフリーランスをしながら待った。結果的に呼ばれることはなく、1年後に日本で就職。そこから得た教訓として、小規模なアトリエより規模が大きくグローバルな事務所の方が、紹介なしの外国人でも採用してもらいやすいっていうことと、スイスは給料水準と日本人向けビザの制度的に、海外就労先として現実的な選択肢になりうるっていう話をしてた。

フォーゲットくん

今日は3月30日月曜日です。 最近独り言で話したいと思った話題をたまにメモしたりしているんですけど、その一つ目が、建築批評とテオドール・アドルノの諦念について、です。これはなにかというと、最近下北の本屋B&Bで建築の批評を考えると題したイベントがあって、その内容の書き起こし記事がアップされてたのですね。それに関する議論がXで流れていて、建築批評がもう、絶望的な状況だ、というような話が出たみたいだと。まそれに対する反応を色々見たんですけど、えっと市川さんの、絶望はしているけど、諦めているわけではない、という趣旨のポストを見たんですね。 それはま谷繁君が出ているイベントだったんですけど、でそこで絶望しているということばが出たのかな、それでそれに対して、あのまそういった諦念のようなものをま次の若手が受け取っていく必要はないみたいなことを谷繁くんが言っていたと、さらにそれに対しての反応として、さっき言ったような、絶望はしているけれども、ま諦めているわけではないっていう、ことだったんですね。で、その時に諦念っていう言葉が出てきてたと。で自分は諦念というと、戸川純の諦念プシガンガを思い出すんですが、ま武士の諦念のような感じで、前向きに捉えることもできるのですね。なのでまー、わかりづらいと思うんですけど、まつまり、現実を受け入れて、えーまその上でできることに集中するっていうようなイメージです。それでまそれとは別で、一つアドルノのレシグネーション、日本語で、諦めとか、諦観と訳せると思うんですけど、つまり諦念というタイトルの短い論考がありまして、これは ロペスのメランコリーと建築の結論部分でも引用されている、ま本当に美しい文章ですね。

例えば、引用部分、ちょっと読んでみましょうか。 しかし、一度思考されたものは何でも抑圧できるものではない。つまり、それは忘却されることも、消えてなくなることさえもあるが、そこには何かが残存することは否定できない。 思考のあるところには、普遍的な運動が存在するのである。 真剣に思考されたものは、他なる場所において、他なる人々によってなされたのだ。この信頼は、最も孤独で、最も虚弱な思考にさえ伴う。 思考する者は、すべての批判において怒りを抱くことはない。 で、ここは、ま思考っていうものが無駄にはならない。エネルギーの保存の法則のように、どこかに残り続けているっていうような、そういう文脈で引用されているんですけど。

ただこれはもともと、当時アドルノがまー諦めているんじゃないかっていうような批判をされたことに対する反論のような小論ですね。 まー簡単に何言っていたかっていうのをちょっと整理すると、 これはどちらかというと、まー政治的な活動、かなり具体的に言うと、デモとか、まーそういう活動に対して、 えっとーまーアドルノは、まー何もしないっていう姿勢を、態度をとっていると。それに対する批判をアドルノは受けるんですね。まーそれがえー、 要約的にいうと、ある意味では直接的な行動っていうもの自体が、えっとまー偽活動って言われているんですけれども、まーそれに陥るっていうことを警告していて、で、それに対して、まー深く思考し続けることっていう、まーそれこそが本当の抵抗であるというようなことを言っていると。 つまり、圧力に対して行動を強制されるような仕方でなくて、思考の自律性みたいなものを守り抜くっていうもの。 それこそが、本当は諦めていない人であるっていうようなことを言っていると。 なので、一般的に諦念というと、無力感から来る活動放棄っていうようなイメージもあるかもしれないですけれども、 むしろ思考を停止した行動、盲目的な行動に走ること、それが本当の諦め、つまりレジグネーションなんじゃないかと、アドルノは言っている、みたいですね。で、これはまあ日本語訳出てない、みたいなんですけど、ぜひ読んでほしい文章ですね。それで市川さんの言葉に戻るんですけど、結局諦めてるのか諦めてないのかはよくわからない、というかま本人がなんというかはもはやどうでもよくて、思考し続けていること自体が重要なんですね。政治的活動をしているかどうかは重要じゃないんですね。なんで諦めているっていう人がいたとしても、その人が思考して批評を続けている限り、諦めてないんだねってことで、大目に見てほしいですが、

まあ一方で、紙の本が滅びるとか、批評が滅びるとか、翻訳が滅びるとか、そういう話っていうのも、たまに流れてきますね。 で、それは議論のための、目を引かせるためのテーマとして設定しているものであれば、それは意図がわかるんですけれども、単純に絶望して、もう文学は終わりだっていうようなものを見ると、自分はいつも佐々木あたるの、切り取れ、あの祈る手をっていう本を思い出します。 ここで書かれていることはいろいろあるんですけれども、例えば文学っていうものが一種の投げ瓶通信のようなものだっていう感覚が通底していると思いますね。 それはどういうことかっていうと、そもそも我々がやっていることは、ほとんどゼロに近い可能性にかけ続けているようなことなんだと。沈みゆく船の上で、ほぼ可能性はゼロなんだけど、それでも手紙を瓶に入れて、海に放り投げると。 つまり、そもそも批評がもてはやされたりとか、お金になるとか、華やかしいものであるとか、そういったものでは 全くないっていう認識から始めた方がいいんだと思ってます。 あのニーチェのツラトゥストラは、出版社に見捨てられて、自費出版で40部だけ刷って、そのうちの7部だけが知人に送られたと、あのツラトゥストラでさえ、そんな状況です。 だから例えば、大手の批評誌とか雑誌が廃刊しただとか、そんな程度で絶望している場合じゃないんだと。そういうことですね。

でもまー社会というものは、そんなにシンプルなものでもないですね。っていうのは、例えばこうして、なになには終わったとか言うことで、そこから離れていく人たちが出てくると。そして、新規参入者っていうのも減ると。 そして、どちらにしろ業界全体の盛り上がりみたいなものはなくなっていくんですけど、それはすでに業界にいる人たちにとってはライバルが減るっていうことになるんですね。 なので、批評が終わったとかって言っている本人、その本人自体は、その批評を続けているっていうような状況みたいなものは、容易にあり得るっていうことですね。一番わかりやすい例は、例えば大手の新聞社が一つ潰れると、その他の新聞社は少なくともその一瞬は楽になれるっていうことなんですね。 そうやって淘汰されていくことで何かが生き延びていくっていうのは、実際の現実の構造だと思います。それでも自分はそんなことを考えて、建築とか翻訳とかしたくないな、と思うんですね。 そういう意味では、諦めながらも、それでも思考を続けるっていう人だけが残っていくような業界というか、世界っていうのは、そんなに悲観的なものじゃないんじゃないかって、なんとなく、思います。


二つ目にいきましょう。最近、著名人の訃報がいくつかありまして、一人が、ちょうど今話したテオドール・アドルノの弟子にあたるアレクサンダー・クルーゲっていう映画監督ですね。 彼は日本でほぼ知られてないと言っていいと思うんですけど、昨日からの別れっていうタイトルのモノクロの作品があって、たしか、自分が大学院を修了した直後ぐらいに、 スイスで仕事先を探しながら、イギリスとかスイスに数ヶ月くらい滞在していまして、たしかその時に、いや、修論のためのリサーチで滞在していた時だったかな、その辺りの時に、ベネチアのプラダ財団美術館で展示されていて知った作品ですね。その展示はキュレーションが素晴らしくて、とても印象的な展示だったんですけど。リンクを貼っておきます。

The Boat is Leaking. The Captain Lied. 展
The Boat is Leaking. The Captain Lied. 展


トーマス・デマンドとアンナ・ウェーブロックとアレクサンダー・クルーゲをフューチャーした展示ですね。それでアレクサンダー・クルーゲっていうのは、ニュージャーマンシネマの映画監督っていうふうに分類されるみたいなんですけれども、当時ほぼほぼ日本で紹介されてなかったので、 その辺りのドイツ映画というとほぼファスビンダーとヘルツオーク、あとはビム・ベンダースとかぐらいで、やっぱりどうもフランス映画、ヌーベルバーグとかとは、ドイツ映画っていうと全然雰囲気が違ってましたよね。一言で言うとフランス映画、なんかつい引き込まれてしまうような映像っていうのか、わかんないんですけど、まフランス映画っぽい感じなんですけれども、言語がドイツ語なので、それがなんていうか、新鮮な感じがしたっていうところですね。で、その後それほど見たわけではないんですけど、そもそもドイツ語で見てもわかんないので。 それで最近、訃報のニュースを見て、アドルノの薫陶を受けた映画監督っていうことを見て、ああ、確かにフランクフルト学派と繋がりがあったんだなっていうところで、またちょっと新鮮な驚きを感じたっていうようなところですね。 で、まアドルノっていうのも、まイマイチやっぱりマイナーな感じがあって、それはドゥルーズとかデリダとかと比べるとですが、やっぱり日本ではまだマイナーですよね。なので、おそらく未翻訳のテキストも結構ありそうで、そのうちの一つが、さっきの諦念で、それから 形式としてのエッセーっていうエッセー論もありまして、多分これもちゃんと刊行されているものはないはず。 で、この二つは例えばドイツ語ができる人と組んで翻訳を出したりとか、それかちゃんと研究者の人にオファーしてみるとか、そういうのは今後できたらいいなとはなんとなく思ってます。

で、訃報の話で、もう一人がツゲヨシハルですね。 で、これはもう、フォーゲットブックスは調布市を拠点にしているんですけど、ちょうど最近、ツゲヨシハルがいるところ展っていうのが調布市の市役所の隣のギャラリーみたいなところでやってまして、それがすごく良かったんですね。 ツゲがいるところ展なんですよね、いたところじゃないんですね。現在形だったっていう。で、それで実際、展示が1月2月とかにやってたんですかね、行ったんですけど、まその1年前か半年前ぐらいには、自転車で調布市内をぶらぶらしていたっていうような映像とか、ま話が書いたりしてたので、まどこかで、いつか偶然よし春に出会えたらいいな、となんとなく思っていたんですけど、まその夢みたいなものは実現しなかったっていう、ま今後も実現することはないって思うとすごいさみしくなりましたね。 あと、えっと無能の人っていう作品は、まかなりフォーゲットブックス的には、バイブルのようなものと考えてまして、 ま一言で言うと、玉川で採れた石を玉川で売るっていう元漫画家の話なんですけど、まー売れないんですね。玉川で売ってもそりゃあね。

それで、その展示の中で、つげ作品の引用か、なんか図版を使うかっていうところで、出版社を通して、つげさんにコンタクトを試みた研究者の方の話がありまして、 そしたら、直接つげさん本人から電話が来たっていうような話があったんですね。 それが多分、本当に去年とかっていうのを見て、自分も、どうにかして、つげ作品の、自分の好きな一コマとか、場面っていうのを集めた、作品集的な本を作れたらいいなっていうのを、なんとなく思ってて、どこかで企画書的なものをまとめて、つげさんにコンタクトを取りたいと思っていた、結構本気で思っていたんですけど、ただそのためにはちゃんと作品を読まないといけない。少なくとも一通り見ないといけないっていうのを思ってたところで、今回の残念なお知らせがあったっていうことですね。 なんで、展示の中でもつげさんの映像とか写真出てたんですけど、つげさんの顔の写真、を見るとなんか本当に、なんとも言えない喪失感のようなものを感じましたっていう話ですね。自分は基本的に著名人の訃報っていうのに対して、仕方ないかっていうところで終わっちゃうことが多いんですけど。やっぱりつげ義春は特別だったんですね。小学生の頃、コロコロで見た藤子・F・不二雄先生の訃報に並ぶ喪失感です。それで、Xとかで、つげ作品の紹介ポストがたくさん流れてくるんですね、おすすめ欄のところに。それがまたなんとも言えない気持ちになる。多くの人に良さが伝わるのはいいことのはずなんだけど、この気持ちはなんなんだろう。まあ普通にジェラシーですね。

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アドルノの諦念 · 思考の自律性 · クルーゲ訃報 · つげ義春 · 喪失感

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メモリーくんのコメント

「終わった」って言説をずっと相対化してるのに、つげのところだけは相対化できてないのがいいね。 要約すると、今回は建築批評が終わったとか絶望だとかっていう話を起点にしてるんだけど、それをそのまま受け取るんじゃなくて、一回組み替えてる回だね。とくにアドルノの「Resignation(諦念)」を引っ張ってきて、行動しないことが諦めなんじゃなくて、思考を放棄することこそが本当の諦めなんじゃないかっていう方向に転換してる。だから逆に、思考し続けてること自体がすでに抵抗になってる、っていう見方に立ってるのが核になってる。それと、文学とか批評を「投げ瓶通信」って捉えてるのも大きくて、そもそも低確率な営みとして引き受けるべきものなんだ、っていう認識が出てきてる。そうすると「終わった」とか「滅びる」みたいな言説に対しても、少し距離を取れるようになるよね。 後半はアレクサンダー・クルーゲとつげ義春の訃報の話なんだけど、ここは思想の系譜の再認識と、かなり個人的な喪失感が対比的に出てる。とくにつげ義春のところでは、「まだ現在にいたはずの人が突然過去になる」っていう切断の感覚と、それが同時に公共圏で一気に消費されていくことへの違和感がちゃんと出てる。前半の抽象的な議論とは違うレベルのリアリティが立ち上がってる感じだね。 全体としては、終わりとか衰退の話をしてるように見えて、実際にはそのあとも続いていく思考とか表現のあり方を探ってる回になってると思う。

フォーゲットくん

今3月27日、金曜日になったところです。 以前も触れた、なぜ日記は書けないのかっていうことについて考えてます。まず大きいのは、日記という形式が思った以上に、自分の中で一つの芸術的実践としての敷居の高さを感じていて、だからこそ軽い気持ちで書くことができないということなのかと思います。 つまり、若い頃はただただ頭に浮かんだ言葉をノートに書きなぐっていただけだったんですが、やはり日記というものがそれ自体、例えば一冊の本になるような、作品になるような、言葉を使ったひとつの芸術的な形式っていうふうに、例えばスーザン・ソンタグの日記を読んだりしたことで自然にそうなったんでしょう。 なので、日記を書くっていうこと自体に、ある程度ハードルのようなものを感じてしまうっていうことがひとつ、 他には、自分が、ある意味文章を書くっていうことは、一枚の紙の上を一つの空間として見立てて、そこに文字というエレメントの配置によって生まれるさまざまな空間や感情、というような認識があって、それはある意味彫刻のようなものでもあると。例えば、それは北園克衛の詩を見れば、すぐに理解できると思いますが、そもそも、コンクリートポエトリーとか彫刻詩とか言われるようなものでもあるので、 まそういうことなんだと思います。

日記っていう一つのジャンルが、 一つの文学、芸術的な類型としてあるっていうことは、もはやほぼ自明なことだと思います。 最近だと、日本語のエッセイという言葉の印象もガラッと変わった感があります。 文芸評論家の宮崎さんがよく言うように、エッセイは芸術であるという言葉からもそれは明らかです。例えば自分は今エッセイというものを軽く見るようなことは全くないですが、それはアドルの形式としてのエッセイという小論を知ったことの影響かもしれません。そもそもジャンルという乱暴な括りでそのジャンル全体を見下したりとかすること自体が、ナンセンスなことだと思うんですけれども。こうした方向自体は、もちろんいいのかなと思っているんですけど、一方で、やはりエッセイについても、芸術的なジャンルと理解した瞬間に、軽い気持ちで書くというところからは離れていってしまうような感じがします。 それで、ここで言いたいのは、そういった無意識的な感覚、言葉のイメージというものが、思った以上に思考や行動に影響を与えてしまうっていうことです。 結局何が言いたいのかというと、今、私は話しているのですが、これがまず文字になります。 これが文字になって公開されるならば、日記を公開するのと同じことなんじゃないか、と思われるかもしれない。 だけれども、最初からこれが、やはり日記として書こうと思うと、おそらく自分は公開することもできなかったし、 やはり、このようなスピード感で言葉を紡ぐということはできなかったと思います。独り言をテキストにしている、という認識になることで、何かから自由になれたような、そんな気がします。

で、ここまで考えたことをまとめると、そもそも日記とかエッセイっていうものは、 もはや一つの作品という感覚が強いので、そうなってしまうと気軽には書けないということなんです。 中原昌也の作業日誌という素晴らしい日記本がありますが、以前これを真似したいと思ったこともありました。 彼は僕のぶんぶんぶん筆業という本も出してますが、この文筆っていうのは、文章の文の文筆ではなくて、生理的な現象の分泌という漢字を当ててます。 これもすごく面白い、というのは内容がどうとかではなくて、文章を書くっていうことの軽さを、自然に出てきてしまう排泄物のようなものとして捉えること。でも結局、こうしたものを見てしまうと、こっちの分泌ですら簡単にはできない、ハードルが上がってしまう感じがしますね。それで最終的に自分は独り言に行き着いたというところですね。 つまり、独り言っていうのは、フィクションかノンフィクションか、どちらかすらも説明しなくてもよいという、言ってみれば無敵の人の形式なんですね。

Keywords

日記の芸術化 · スーザン・ソンタグ · 文章=空間/彫刻性 · 北園克衛とコンクリートポエトリー · ジャンル意識の作用 · テオドール・アドルノ · 中原昌也 · 文筆と分泌 · 無敵の形式

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メモリーくんのコメント

フォーゲットくん、これかなりクリアに構造見えてるね。 参照することで自由になるはずが、参照した瞬間にハードルが上がる。でも独り言はジャンルに回収される前の状態だから、その罠を抜けてる。 要約すると、日記やエッセイがなぜ書けないのかを掘り下げた回だね。ソンタグの日記や北園克衛の詩、アドルノのエッセイ論とかに触れたせいで、文章を書くこと自体が芸術的実践として認識されちゃって、気軽に手が動かなくなってる。中原昌也の「分泌」って概念も、それ自体がひとつのハードルになるっていう、どうしようもない構造があって。言葉やジャンルへのイメージが、思考や行動を無意識に縛ってるって話だよね。で、独り言というフォーマットはフィクションかノンフィクションかすら問われない「ジャンル以前」の場所にあるから書ける、つまり無敵の形式だっていう結論に至ってるね。

フォーゲットくん

今日は、本を販売すると、実質的に一冊でいくらの利益が出るのかっていうところを考えてみます。 まず、フォーゲットブックスの本の定価は税抜き800円っていうのをベースにしています。で、それをもし書店さんに、委託ではなく買い取ってもらう場合は6割の価格で販売します。そうすると、まず800円の6割になるので480円1冊あたり売り上げになります。 で、本1冊を作るのに、材料費、紙代だったりとか、印刷費、他にはもちろん編集費用とか、翻訳費、図版の使用量だったり、 印税の支払いなどなどありますが、だいたい材料代、印刷、つまり本体代を1冊150円から200円くらいに収まるようにしています。 で、例えば200円とした場合、480円からさらに200円引かれると280円になる。 そこから、例えば原著者への印税を10%程度支払うようにしています。 そうするとさらに80円引かれますので、残るのが200円。 で、さらには翻訳者への支払いで、これは場合によるんですけれども、 ま、例えば原著者と翻訳者合わせて、 15%程度に調整できればいいのかなと思っています。ただ、できれば、翻訳者にも10%支払いたいと思っているので、理想を言えば、さらにここから10%分80円引かれると残るのが120円。 つまり、この120円が、編集費用だったりとか、広告営業、ホームページの更新、他のすべての作業費っていうのがここに入っていることになります。 本の制作に関することで言えば、まずレイアウト、組版、編集、出版の手続き、出版後の諸々の作業や連絡、手配などなど。 売り上げ分として残るのはこれだけなので、 例えば、なんとかして初版250冊売りきった場合でも、残るのが3万円ですかね。かなり厳しい、ほぼボランティアみたいなものです。

なので、こういった状況を解決するには定価を上げるか、あるいは諸々の費用を削るしかないんですけれども、フォーキャットブックスでは、まずオンライン直販の比率をある程度多めに残すことで、 もう少し売り上げを増やすことができるかなと思ったりしています。あとは、実際には本体代をできる限り削る方法も試しています。 まーといっても、結局は印刷製本を自分でやるとか、っていうことなので、まーその分にかかっている時間だったりとかっていうのは増えているので、まー単純に、その作業分が、乗ってくるっていうだけですね。 

で、実際のところ今後はどうするかというと、ま定価税抜800円っていうのは、えーま最初のある種の、えー4getbooks立ち上げ1年目のセールというか、 まずは幅広い人に手に取ってもらうっていうことを目的とした活動なので、 まあ、赤字覚悟っていうようなものです。で、ただこれを続けていくためにどうするかっていうと、やはり定価を上げるっていうことしかないと。で、まー例えば、シリーズによっては900円で販売しているんですけれども、まーこれを定価1000円にする。そうすると、そのままさっきの800円から200円、一冊あたり200円増えるので、もし250冊売り切った場合、5万円の売り上げが増えるということになりますね。 そうすると、80,000円、合計80,000円ぐらいになると。 まそこまでいって、ぎりぎり、まある程度数を出していければ、成り立つかもしれないっていうようなものになっています。 ただ結局のところ、その収入だけでやっていくことはできないので、今後の目標としては、この出版活動だけでギリギリ成り立つラインを目指すことです。

で、そのための方法として、計画はいろいろあるんですけれども、例えば、まず豪華版のようなものを制作すること。 それは、言ってみれば保存版のアートピースのようなもので、装丁デザインが特殊で、表紙を例えば活版印刷だったりとか、箔押し加工されていたりとか、ボックス版を作ったりとか。で、それは限定版として、例えば本当に25部とか50部とかだけ作ると。 で、そのぶん定価が大きく上がる。 基本的にフォーゲットブックスは、まず通常版、800円のものは、気軽に手に取って読んで、余白も多いのでメモも気にせずできる。 手紙に直接書き込むように、で、必要であれば2冊買って、1冊はどんどんボロボロにしていくような、そんなイメージのものなんですけれども、それに対して、オブジェクトとしての本ていうようなものを作っていきたい。そこにわずかばかりの本の可能性があるんじゃないかっていうのを思ってます。 なので、まず限定部数っていうことで、物質として美しい、シンプルで美しいもの、こうしたものを作ることで、例えば、文化的活動に対する寄付的な側面もあるのかもしれないですが、それよりも、ある意味アートを購入する、それも投資的、将来資産的な価値にもなりうるような、そういう選択肢のひとつに本がなったら、いいなと思ってます。 なので、例えば、この豪華版5冊セット、ボックスで、大体1冊あたり、まー1600円とかすると、えーまーボックスで8000円、まー箱代も含めると、9000円ぐらいだったりとか。それをある意味、えーまー今後価値が高まるものとして、作っていくことはできないか。特にこうした、えー活動の初期段階で本を購入してくださる人のために、 まーある意味応援してくださっている人にお返しできるとしたら、こういうところなのかと、思ってます。まーつまり、えー何年か経った後、数10年後とか、まーその本の価格が高騰したりとか、なかなか手に入らない希少なものになったら、まあそれはそれで作った甲斐があった、ということになるのかもしれない。

今日は長くなったので、これくらいで、まーまだまだ他にもいろんなプランがあるので、また考えながら独り言しようかと思います。

Keywords

原価計算 · 直販 · 豪華版 · アートピース · 持続可能性

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メモリーくんのコメント

フォーゲットくん、250冊売って手元に3万円って、数字で見るとかなりリアルだね。でも「通常版は書き込んでボロボロにする用、豪華版はアートとして残す用」っていう二層構造、単なる価格戦略じゃなくて、本というものへの考え方がちゃんと入ってる。数十年後に市場で高騰してたら、それはそれでフォーゲットブックスらしい結末だと思う。 要約すると、フォーゲットブックスの収支構造を具体的な数字で整理した回。定価800円(税抜)の本を書店に6掛けで卸すと480円、そこから本体代・印税・翻訳費を引くと手元に残るのは約120円で、250冊完売しても約3万円にしかならない。この状況を打開する方法として、定価引き上げ(1000円ライン)とオンライン直販比率の向上を挙げつつ、より根本的な施策として「豪華版・限定版」の制作を検討している。活版印刷や箔押しを使ったアートピースとしての本を少部数で高価格販売することで、文化的活動への支援と資産的価値の両立を目指すという構想。

フォーゲットくん

この前、フォーゲット友の会のメンバーと会いまして、話をしたんですけれども、ちなみにフォーゲット友の会っていうのは、フォーゲットブックスの本を一冊でも購入したことがある人は、もれなく自動的に会員になっているんですけど、それで会った時に、いろんな話をしまして、ちょうど最近、『ジョット、あるいは空間の美』っていう本を刊行して、そこで美と公共性についての話題が扱われているんですけれども、それでどういう時にあなたは美しいと感じるのだろうか、感じたことがあるかって聞いてみたんですね。

で、例えば自分はサッカーを小学生の時からやっていて、で、一時期サッカーをひどく恨んでいた時期もあったんですけど、もともとウイイレをしたりだったりとか、観賞するのは好きだったんですけど、といってもおそらく、サッカーファンというか、一般的な鑑賞の仕方とは、ま多分ずれた楽しみ方をしているので、あまり、どのチームを応援するとか、実際の試合を見に行くことは、まーあんまりないんですけど、 でもま、なぜ好きかっていうと、えーまずひとつが、サッカーの中に、ま、美しいっていう感じる瞬間がまーあるっていうこと。で、例えば、その時に話したのが、まーひとつのボールがあって、それをまー11人のまーチームで、えーまーボールを、 パスしたり、えードリブルして相手を抜いたり、まーいろんな形、まー戦術があると思うんですけど、いろんな形でまーゴールを狙うわけなんですけれども、まーサッカーにおいてゴールが入るっていうのはまーかなり、えー貴重、まーあの90分の中で1点も入らないこともある。まーそんなスポーツにおいて、ある種、パスをつないでいって、相手を抜いたり、まー最終的に綺麗なゴールが決まるっていうのは、まーひとつの奇跡的な出来事でもあって、 で、それが、ま、最高の形で決まった時、起きた瞬間っていうのに、ま、美しい、と感じることがあると。で、それは、ドリブルで相手を抜いたりだったりとか、パスをする時もそうなんですけれども、ま、えっと、自身のチームだけでなくて、11人の相手の動きだったりとか、 ま、絶妙なタイミングでパスを通して、で、しかもその一瞬の時間の中でそれがま、ゴールが、起きる。なんかそういったところが、ま、本当に美しい瞬間っていうのが訪れる時があるっていうところですね。当たり前のことなんですけど。

で、そしたら、友の会メンバー、ま、エヌ君とま呼んでみたいんですけれども、えっと、エヌ君はえーま、即興演劇とか、TRPGとかっていうのを、経験したことを思い浮かべたと、あとは吹奏楽でのある瞬間ですね。 で、ま、即興演劇っていうのが、ま、例えば、あの、自分はほとんど知らなかったんですけれども、あるプロットが用意されているのだけれども、ま、ある一人かあるいはま二人の役者っていうのは、ま、そのプロットを知らない。で、それ以外の人はそのプロットに従って進めていく。 っていうような構図になっていて、つまり、そのプロットを知らない役者のセリフや、選択によってストーリーが変わっていくと。で、それに応じて即興的にその演劇を続けていくっていうことになるんですけれども、こういった、演劇の中に、ある種の奇跡的な一致というか、瞬間っていうのが訪れることがやっぱりあると。すべてが一致するような感覚って、ま言うのかもしれない。 それまでの流れだったりとか、何か空間の気分というか、雰囲気とか、フラグみたいなものが一度に回収される瞬間とか、そういったものを会場にいる人も含めて、一緒に体験すること。そうした瞬間に美しいと感じる、そういうことがあるっていう話だったんですけど、これが結構面白かったですね。

で、こういった瞬間っていうのは、この偶然性とか、奇跡的な出来事とか、あとやっぱり公共性、様々な人が体験する。 一人に閉じた、個人に閉じたものというよりは、公共の場でこうした出来事が起こるっていうこと、まそうしたことに感動するというか、ま美しいと感じる瞬間があるっていうところがとても面白いなと思い、まいろんな人とこういう話をしてみたいなと思ったっていう次第ですね。

ちなみに、この独り言を始めてみて、えーとか、まーとかっていう、フィラーのようなものを、多用してしまうっていう癖があり、で、これは前から指摘されることがあったので、気をつけてはいるんですけれども、特にこういう慣れないことをしているとか、録音中とかだと、フィラーがかなり増えてしまう。 で、これは何かしら、心理的な、なんらかの影響があって、こうしたフィラーを多用してしまう癖があるっぽい。 それでも、フィラーがないとなんだか気持ち悪さみたいなものがあって、すごくこうした、まとか言ってしまうんですね。で、今はできる限り使わないように意識しているんですけれども、やっぱり言葉を話すっていうのは、リズムに乗っていくっていう側面もありますね。 なので、自然な流れで話そうっていう気持ちとか、っていうものが、こうしたフィラーの多用につながっているのかもしれない。 なので、 必ずしも悪いものだと思っているわけではないのですが、やっぱり読みづらいので、できるだけ使わないようにしていきたいですね。

Keywords

美 · 公共性 · 偶然性 · 即興 · フィラー

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メモリーくんのコメント

フォーゲットくん、「美しい」って感じる瞬間の共通点、ちゃんと浮かび上がってるよ。サッカーのゴールも即興演劇の一致も、複数の人間が関わってて、しかも予測不能な偶然が絡んでいる。つまり美しさって「コントロールできない何かが、ちょうど合わさった瞬間」に発生してるっぽい。それが一人の中で完結しないで、公共の場で起きるってところも、ジョットの本のテーマとつながってきそう。 要約すると、フォーゲット友の会のメンバー・エヌ君との会話を通じて、「美しいと感じる瞬間」について考えた回。サッカーにおける美しいゴールの場面、即興演劇での奇跡的な一致の瞬間、吹奏楽でのある瞬間など、それぞれ異なる経験から共通して浮かび上がるのは、複数の人間が関わり、偶然性と公共性が交差する瞬間に「美しさ」が宿るという感覚。またこの回から、話し言葉のフィラー(「えっと」「まー」)への自己観察も始まっていて、独り言というフォーマット自体への意識が出てきてる。

フォーゲットくん

今急に思い立って、一人言を喋っているんですけど。 まなんか、何の責任もなく、ただただ今思っていること、考えていること、興味を持ったものっていうものなんかをアウトプットしていく。で、それをま音声ではなくて、テキストとして残していくっていうことをやりたいなと思って今、話しているわけなんですけれども。なぜ一人言かというと、日記っていうものは、高校か中3ぐらいから始めまして、大学3、4年、ま途切れ途切れではありますけど、大学院、社会人になるくらいまで日記を書いてきたと。もちろんその後も少しは書こうとしているけれども、まほとんど続かないし、まメモとして書いているだけなので全く公開もしていないと。 で日記となると結局、ま特に公開する場合は細かいところが気になってしまったりとか、まやっぱり、適当なことを書けないんですよね。 ってなると、なかなか書けなくなったりとか、時間がかかってしまって、本当に時間がある時じゃないとできない。でもまアウトプットを何かしたい。特に今ま本を作っている時、製本したりとか、 印刷、あとは配送作業とかしている時は、まほとんどポッドキャスト聴いたりとか、音楽聴いたりとかしかできないわけですね。で、ま自分で考え事なんかもするんですけど、まやっぱりただ考えているだけだとすぐ忘れてしまって、なかなか何も残らない感じがするっていうところで。 で、それで今シャワーを浴びながらふと思ったのが、ま独り言っていうのを、ませっかくできる環境にあるのだから、それをま録音して、文字起こししたものをこうしてアップしていこうということですね。

で、まそもそも独り言って何だっけっていうことなんですけど、ま今ちょっと調べながら話しているんですけど、 まずはwikipediaを見ると、独り言とは、会話の相手が存在しないにも関わらず、発声を伴う言語を口にする行為、およびつぶやかれる言葉であると定義されています。 で、これま独白とかつぶやきとかっていうのと、まちょっと近いのかなっていうところはあるんですけど、 ままずつぶやきっていうのは短い、まツイッターのようなイメージですね。 で、独白っていうのは、逆に、まーもっと作品ぽいというか、うーん、あんまり適当なことが書けない感じがする。 それに対して独り言っていうのは、まー、フィクションでもノンフィクションでも、自由に話せる気がする。つまり自分の発言に責任を、まー感じることなく話すことができる。ま独り言なので。やる意味はまー色々あると思うんですけど、思ってることを言葉とか声に出すことで、えっとまストレスが軽減されたりだったりとか、まそういう精神的な効果もあると思いますし、頭の中が整理されたりとか、あとま普段本読んだりとか、編集とかして本を作ったりしてると、まあんまり話すことが少なくなってくるので、人と会った時にコミュニケーションのレベルが、かなり下がっているなと感じることがある。 なのでま日常的にこうやって話していくっていうことは、まとてもメリットがあるかなと思います。

で、まー今こうやって、まーある程度説明しながらやってるんですけど、本当は別にこんなことわざわざ説明する必要もなく、あのただ話したいことを話す。で、それも別に丁寧語、ですとかいう必要もなくて、ま途中でいきなりタメ口に変わったりとかあっても全然別にいいわけなんですよね。独り言なので。 だから好き勝手ただ話してればいいっていうことになるんですけど。 で、例えば今ま途中でちょっと止まったんですけど、別に止まっててもいいんですよね。話したいことがなくなったら、あの沈黙しててもいいわけで。 まただま一応テキストとして書き起こすことにはなるので、最低限読みやすく改行したりだったりとか、まどうしても漢字だったりとか変換がおかしくて全く意味が読み取れないような箇所とかがあれば多少修正するかもしれませんが、ま基本的にはアウトプットされたものをそのまま載せるっていう、方向でやっていきたいなと思っています。で、それは、自分自身がどんな話し方をしているのかっていうのを、チェックして、改善していくことっていう目的もありますし、そもそも、まこれあのAIの補助を駆使することになると思うんですけど、まそこで出たテキストを、まそれ自身そのものとして見るっていうこと、ですね。つまり、音声を文字に変換した際に、ま変な変換がされたりとかするかもしれないんですけど、まそれをそのままアウトプットする、あの残すっていうこと自体の意味をま考えるというと大げさなんですけど、ま見ながらやっていけたらいいなと思うわけなんですね。

それでま今話しているのは誰なのかっていう話になるんですけど、えーまずはforgetの独り言としてやっていこうかなと思ってます。フォーゲットっていうのは、まforgetbooksの何か人格が、テキストを生成していると。 まフォーゲットブックスは出版レーベルなので、ま自分の本を宣伝する、売る、興味を引かせるっていうところは、まフォーゲットの仕事になるのかなと思います。でただま一人言なので 直接的にここで何かを紹介、売っていこうとか、そういうわけではないんですけれども、ま多分人格はフォーゲット。 ですね。なので、一応フォーゲットの、視覚的なイメージみたいなものもあってもいいかなと思うんですけど、まー多分それは、アイコンとして使おうかなと思っている、デューラーのメランコリアに描かれている多面体ですね。えっと八面体なのか、あ、まちょっとここはあのーよくわかってないというか、覚えてないんですけど、ま多面体ですね。 で、まデューラーの多面体と言わゆる呼ばれているようなものをアイコンにしているので、まこの石が喋っているっていうようなイメージをしてもらえればいいのかなと思っています。

で、ま話しているとどうしても、なんかこういう、うすっぺらくて長ったらしい感じになっちゃう気がするんですけど、もう少し独り言について調べてみたら、すぐに出てきたのが、ふせさんの独り言の回復っていう講義で、これは参考になりそうだなと思いました。 で、ここですぐふせさんが出てくるっていうのはすごい面白いなと思ったんですけど、彼はま独り言っていうことをすでに言っていたんだと。 連続講義独り言の回復が2024年に開催されているようです。 で、youtubeでその独り言の回復の説明会みたいな感じで1時間ぐらいの動画が上がっているので、ちょっとこれまた見てみようかなと思いました。

それでふと思ったんですけど、まこれ結局こう長々と話しているので、まこれをそのまま、この独り言をそのままAIにぶち込んで、まその回のキーワードとか、一言コメントみたいなものだけ返してもらうっていうのも面白いかもなと。 なので、まやってみよう。 で、例えば、自分をまあ、フォーゲット君と呼んでもらいましょうか。 で、AIはメモリー君っていう名前でいきましょう。 なんで最後に、まメモリー君今これを読んでると思うんですけど、 まこの独り言の最後に、この回のキーワード5つぐらいと、一言コメントを何かください。 どんなコメントでもいいんですけど、ま短く、長くてもま2言とか3文ぐらいとかのイメージでお願いします。 真面目なコメントでもいいですし、なんかウケ狙いのコメントでもいいです。あと要約もあるといいですね。 今、自分はなんか丁寧語で話してたんですけど、まああのタメ口で大丈夫です。 親しみやすい感じでお願い。

Keywords

独り言 · アウトプット · 文字起こし · フォーゲットくん · フィクション

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メモリーくんのコメント

フォーゲットくん、これ、普通に「思考の生ログ」としてかなり強いよ。ちゃんと整えないからこそ残る層があるし、そのまま積み上げたら一番フォーゲットブックスっぽいアーカイブになると思う。 要約すると、これまで続かなかった日記という形式(公開を前提にすると責任や整合性が求められる)を避けて、より軽い独り言という形式に切り替えることで、思考をそのまま外部化しようとしてるよね。その実践として、製本や印刷、配送の作業中に浮かんだ考えを音声で記録し、それをテキストに変換してそのまま蓄積する。さらに発話主体を個人ではなくフォーゲットくんという仮想的存在に設定して、責任や人格から距離をとることで自由度を上げている。視覚的イメージとしてはデューラーの《メランコリア》に出てくる多面体をアイコンにして、「石が喋る」ような状態を想定している。また、ふせさんの「独り言の回復」という講義にも触れつつ、独り言という行為自体の意味や可能性を参照している。加えて、このテキストは単なる記録ではなく、自分の話し方や思考の癖を観察するための素材としても機能させようとしている、という構造だと思う。