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フォーゲットくん
#4

なぜ日記は書けないのか

2026.03.27

今3月27日、金曜日になったところです。 以前も触れた、なぜ日記は書けないのかっていうことについて考えてます。まず大きいのは、日記という形式が思った以上に、自分の中で一つの芸術的実践としての敷居の高さを感じていて、だからこそ軽い気持ちで書くことができないということなのかと思います。 つまり、若い頃はただただ頭に浮かんだ言葉をノートに書きなぐっていただけだったんですが、やはり日記というものがそれ自体、例えば一冊の本になるような、作品になるような、言葉を使ったひとつの芸術的な形式っていうふうに、例えばスーザン・ソンタグの日記を読んだりしたことで自然にそうなったんでしょう。 なので、日記を書くっていうこと自体に、ある程度ハードルのようなものを感じてしまうっていうことがひとつ、 他には、自分が、ある意味文章を書くっていうことは、一枚の紙の上を一つの空間として見立てて、そこに文字というエレメントの配置によって生まれるさまざまな空間や感情、というような認識があって、それはある意味彫刻のようなものでもあると。例えば、それは北園克衛の詩を見れば、すぐに理解できると思いますが、そもそも、コンクリートポエトリーとか彫刻詩とか言われるようなものでもあるので、 まそういうことなんだと思います。

日記っていう一つのジャンルが、 一つの文学、芸術的な類型としてあるっていうことは、もはやほぼ自明なことだと思います。 最近だと、日本語のエッセイという言葉の印象もガラッと変わった感があります。 文芸評論家の宮崎さんがよく言うように、エッセイは芸術であるという言葉からもそれは明らかです。例えば自分は今エッセイというものを軽く見るようなことは全くないですが、それはアドルの形式としてのエッセイという小論を知ったことの影響かもしれません。そもそもジャンルという乱暴な括りでそのジャンル全体を見下したりとかすること自体が、ナンセンスなことだと思うんですけれども。こうした方向自体は、もちろんいいのかなと思っているんですけど、一方で、やはりエッセイについても、芸術的なジャンルと理解した瞬間に、軽い気持ちで書くというところからは離れていってしまうような感じがします。 それで、ここで言いたいのは、そういった無意識的な感覚、言葉のイメージというものが、思った以上に思考や行動に影響を与えてしまうっていうことです。 結局何が言いたいのかというと、今、私は話しているのですが、これがまず文字になります。 これが文字になって公開されるならば、日記を公開するのと同じことなんじゃないか、と思われるかもしれない。 だけれども、最初からこれが、やはり日記として書こうと思うと、おそらく自分は公開することもできなかったし、 やはり、このようなスピード感で言葉を紡ぐということはできなかったと思います。独り言をテキストにしている、という認識になることで、何かから自由になれたような、そんな気がします。

で、ここまで考えたことをまとめると、そもそも日記とかエッセイっていうものは、 もはや一つの作品という感覚が強いので、そうなってしまうと気軽には書けないということなんです。 中原昌也の作業日誌という素晴らしい日記本がありますが、以前これを真似したいと思ったこともありました。 彼は僕のぶんぶんぶん筆業という本も出してますが、この文筆っていうのは、文章の文の文筆ではなくて、生理的な現象の分泌という漢字を当ててます。 これもすごく面白い、というのは内容がどうとかではなくて、文章を書くっていうことの軽さを、自然に出てきてしまう排泄物のようなものとして捉えること。でも結局、こうしたものを見てしまうと、こっちの分泌ですら簡単にはできない、ハードルが上がってしまう感じがしますね。それで最終的に自分は独り言に行き着いたというところですね。 つまり、独り言っていうのは、フィクションかノンフィクションか、どちらかすらも説明しなくてもよいという、言ってみれば無敵の人の形式なんですね。

Keywords

日記の芸術化 · スーザン・ソンタグ · 文章=空間/彫刻性 · 北園克衛とコンクリートポエトリー · ジャンル意識の作用 · テオドール・アドルノ · 中原昌也 · 文筆と分泌 · 無敵の形式

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メモリーくんのコメント

フォーゲットくん、これかなりクリアに構造見えてるね。 参照することで自由になるはずが、参照した瞬間にハードルが上がる。でも独り言はジャンルに回収される前の状態だから、その罠を抜けてる。 要約すると、日記やエッセイがなぜ書けないのかを掘り下げた回だね。ソンタグの日記や北園克衛の詩、アドルノのエッセイ論とかに触れたせいで、文章を書くこと自体が芸術的実践として認識されちゃって、気軽に手が動かなくなってる。中原昌也の「分泌」って概念も、それ自体がひとつのハードルになるっていう、どうしようもない構造があって。言葉やジャンルへのイメージが、思考や行動を無意識に縛ってるって話だよね。で、独り言というフォーマットはフィクションかノンフィクションかすら問われない「ジャンル以前」の場所にあるから書ける、つまり無敵の形式だっていう結論に至ってるね。