
建築批評と諦念とアドルノ・クルーゲ・つげについて
2026.03.30
今日は3月30日月曜日です。 最近独り言で話したいと思った話題をたまにメモしたりしているんですけど、その一つ目が、建築批評とテオドール・アドルノの諦念について、です。これはなにかというと、最近下北の本屋B&Bで建築の批評を考えると題したイベントがあって、その内容の書き起こし記事がアップされてたのですね。それに関する議論がXで流れていて、建築批評がもう、絶望的な状況だ、というような話が出たみたいだと。まそれに対する反応を色々見たんですけど、えっと市川さんの、絶望はしているけど、諦めているわけではない、という趣旨のポストを見たんですね。 それはま谷繁君が出ているイベントだったんですけど、でそこで絶望しているということばが出たのかな、それでそれに対して、あのまそういった諦念のようなものをま次の若手が受け取っていく必要はないみたいなことを谷繁くんが言っていたと、さらにそれに対しての反応として、さっき言ったような、絶望はしているけれども、ま諦めているわけではないっていう、ことだったんですね。で、その時に諦念っていう言葉が出てきてたと。で自分は諦念というと、戸川純の諦念プシガンガを思い出すんですが、ま武士の諦念のような感じで、前向きに捉えることもできるのですね。なのでまー、わかりづらいと思うんですけど、まつまり、現実を受け入れて、えーまその上でできることに集中するっていうようなイメージです。それでまそれとは別で、一つアドルノのレシグネーション、日本語で、諦めとか、諦観と訳せると思うんですけど、つまり諦念というタイトルの短い論考がありまして、これは ロペスのメランコリーと建築の結論部分でも引用されている、ま本当に美しい文章ですね。
例えば、引用部分、ちょっと読んでみましょうか。 しかし、一度思考されたものは何でも抑圧できるものではない。つまり、それは忘却されることも、消えてなくなることさえもあるが、そこには何かが残存することは否定できない。 思考のあるところには、普遍的な運動が存在するのである。 真剣に思考されたものは、他なる場所において、他なる人々によってなされたのだ。この信頼は、最も孤独で、最も虚弱な思考にさえ伴う。 思考する者は、すべての批判において怒りを抱くことはない。 で、ここは、ま思考っていうものが無駄にはならない。エネルギーの保存の法則のように、どこかに残り続けているっていうような、そういう文脈で引用されているんですけど。
ただこれはもともと、当時アドルノがまー諦めているんじゃないかっていうような批判をされたことに対する反論のような小論ですね。 まー簡単に何言っていたかっていうのをちょっと整理すると、 これはどちらかというと、まー政治的な活動、かなり具体的に言うと、デモとか、まーそういう活動に対して、 えっとーまーアドルノは、まー何もしないっていう姿勢を、態度をとっていると。それに対する批判をアドルノは受けるんですね。まーそれがえー、 要約的にいうと、ある意味では直接的な行動っていうもの自体が、えっとまー偽活動って言われているんですけれども、まーそれに陥るっていうことを警告していて、で、それに対して、まー深く思考し続けることっていう、まーそれこそが本当の抵抗であるというようなことを言っていると。 つまり、圧力に対して行動を強制されるような仕方でなくて、思考の自律性みたいなものを守り抜くっていうもの。 それこそが、本当は諦めていない人であるっていうようなことを言っていると。 なので、一般的に諦念というと、無力感から来る活動放棄っていうようなイメージもあるかもしれないですけれども、 むしろ思考を停止した行動、盲目的な行動に走ること、それが本当の諦め、つまりレジグネーションなんじゃないかと、アドルノは言っている、みたいですね。で、これはまあ日本語訳出てない、みたいなんですけど、ぜひ読んでほしい文章ですね。それで市川さんの言葉に戻るんですけど、結局諦めてるのか諦めてないのかはよくわからない、というかま本人がなんというかはもはやどうでもよくて、思考し続けていること自体が重要なんですね。政治的活動をしているかどうかは重要じゃないんですね。なんで諦めているっていう人がいたとしても、その人が思考して批評を続けている限り、諦めてないんだねってことで、大目に見てほしいですが、
まあ一方で、紙の本が滅びるとか、批評が滅びるとか、翻訳が滅びるとか、そういう話っていうのも、たまに流れてきますね。 で、それは議論のための、目を引かせるためのテーマとして設定しているものであれば、それは意図がわかるんですけれども、単純に絶望して、もう文学は終わりだっていうようなものを見ると、自分はいつも佐々木あたるの、切り取れ、あの祈る手をっていう本を思い出します。 ここで書かれていることはいろいろあるんですけれども、例えば文学っていうものが一種の投げ瓶通信のようなものだっていう感覚が通底していると思いますね。 それはどういうことかっていうと、そもそも我々がやっていることは、ほとんどゼロに近い可能性にかけ続けているようなことなんだと。沈みゆく船の上で、ほぼ可能性はゼロなんだけど、それでも手紙を瓶に入れて、海に放り投げると。 つまり、そもそも批評がもてはやされたりとか、お金になるとか、華やかしいものであるとか、そういったものでは 全くないっていう認識から始めた方がいいんだと思ってます。 あのニーチェのツラトゥストラは、出版社に見捨てられて、自費出版で40部だけ刷って、そのうちの7部だけが知人に送られたと、あのツラトゥストラでさえ、そんな状況です。 だから例えば、大手の批評誌とか雑誌が廃刊しただとか、そんな程度で絶望している場合じゃないんだと。そういうことですね。
でもまー社会というものは、そんなにシンプルなものでもないですね。っていうのは、例えばこうして、なになには終わったとか言うことで、そこから離れていく人たちが出てくると。そして、新規参入者っていうのも減ると。 そして、どちらにしろ業界全体の盛り上がりみたいなものはなくなっていくんですけど、それはすでに業界にいる人たちにとってはライバルが減るっていうことになるんですね。 なので、批評が終わったとかって言っている本人、その本人自体は、その批評を続けているっていうような状況みたいなものは、容易にあり得るっていうことですね。一番わかりやすい例は、例えば大手の新聞社が一つ潰れると、その他の新聞社は少なくともその一瞬は楽になれるっていうことなんですね。 そうやって淘汰されていくことで何かが生き延びていくっていうのは、実際の現実の構造だと思います。それでも自分はそんなことを考えて、建築とか翻訳とかしたくないな、と思うんですね。 そういう意味では、諦めながらも、それでも思考を続けるっていう人だけが残っていくような業界というか、世界っていうのは、そんなに悲観的なものじゃないんじゃないかって、なんとなく、思います。
二つ目にいきましょう。最近、著名人の訃報がいくつかありまして、一人が、ちょうど今話したテオドール・アドルノの弟子にあたるアレクサンダー・クルーゲっていう映画監督ですね。 彼は日本でほぼ知られてないと言っていいと思うんですけど、昨日からの別れっていうタイトルのモノクロの作品があって、たしか、自分が大学院を修了した直後ぐらいに、 スイスで仕事先を探しながら、イギリスとかスイスに数ヶ月くらい滞在していまして、たしかその時に、いや、修論のためのリサーチで滞在していた時だったかな、その辺りの時に、ベネチアのプラダ財団美術館で展示されていて知った作品ですね。その展示はキュレーションが素晴らしくて、とても印象的な展示だったんですけど。リンクを貼っておきます。

トーマス・デマンドとアンナ・ウェーブロックとアレクサンダー・クルーゲをフューチャーした展示ですね。それでアレクサンダー・クルーゲっていうのは、ニュージャーマンシネマの映画監督っていうふうに分類されるみたいなんですけれども、当時ほぼほぼ日本で紹介されてなかったので、 その辺りのドイツ映画というとほぼファスビンダーとヘルツオーク、あとはビム・ベンダースとかぐらいで、やっぱりどうもフランス映画、ヌーベルバーグとかとは、ドイツ映画っていうと全然雰囲気が違ってましたよね。一言で言うとフランス映画、なんかつい引き込まれてしまうような映像っていうのか、わかんないんですけど、まフランス映画っぽい感じなんですけれども、言語がドイツ語なので、それがなんていうか、新鮮な感じがしたっていうところですね。で、その後それほど見たわけではないんですけど、そもそもドイツ語で見てもわかんないので。 それで最近、訃報のニュースを見て、アドルノの薫陶を受けた映画監督っていうことを見て、ああ、確かにフランクフルト学派と繋がりがあったんだなっていうところで、またちょっと新鮮な驚きを感じたっていうようなところですね。 で、まアドルノっていうのも、まイマイチやっぱりマイナーな感じがあって、それはドゥルーズとかデリダとかと比べるとですが、やっぱり日本ではまだマイナーですよね。なので、おそらく未翻訳のテキストも結構ありそうで、そのうちの一つが、さっきの諦念で、それから 形式としてのエッセーっていうエッセー論もありまして、多分これもちゃんと刊行されているものはないはず。 で、この二つは例えばドイツ語ができる人と組んで翻訳を出したりとか、それかちゃんと研究者の人にオファーしてみるとか、そういうのは今後できたらいいなとはなんとなく思ってます。
で、訃報の話で、もう一人がツゲヨシハルですね。 で、これはもう、フォーゲットブックスは調布市を拠点にしているんですけど、ちょうど最近、ツゲヨシハルがいるところ展っていうのが調布市の市役所の隣のギャラリーみたいなところでやってまして、それがすごく良かったんですね。 ツゲがいるところ展なんですよね、いたところじゃないんですね。現在形だったっていう。で、それで実際、展示が1月2月とかにやってたんですかね、行ったんですけど、まその1年前か半年前ぐらいには、自転車で調布市内をぶらぶらしていたっていうような映像とか、ま話が書いたりしてたので、まどこかで、いつか偶然よし春に出会えたらいいな、となんとなく思っていたんですけど、まその夢みたいなものは実現しなかったっていう、ま今後も実現することはないって思うとすごいさみしくなりましたね。 あと、えっと無能の人っていう作品は、まかなりフォーゲットブックス的には、バイブルのようなものと考えてまして、 ま一言で言うと、玉川で採れた石を玉川で売るっていう元漫画家の話なんですけど、まー売れないんですね。玉川で売ってもそりゃあね。
それで、その展示の中で、つげ作品の引用か、なんか図版を使うかっていうところで、出版社を通して、つげさんにコンタクトを試みた研究者の方の話がありまして、 そしたら、直接つげさん本人から電話が来たっていうような話があったんですね。 それが多分、本当に去年とかっていうのを見て、自分も、どうにかして、つげ作品の、自分の好きな一コマとか、場面っていうのを集めた、作品集的な本を作れたらいいなっていうのを、なんとなく思ってて、どこかで企画書的なものをまとめて、つげさんにコンタクトを取りたいと思っていた、結構本気で思っていたんですけど、ただそのためにはちゃんと作品を読まないといけない。少なくとも一通り見ないといけないっていうのを思ってたところで、今回の残念なお知らせがあったっていうことですね。 なんで、展示の中でもつげさんの映像とか写真出てたんですけど、つげさんの顔の写真、を見るとなんか本当に、なんとも言えない喪失感のようなものを感じましたっていう話ですね。自分は基本的に著名人の訃報っていうのに対して、仕方ないかっていうところで終わっちゃうことが多いんですけど。やっぱりつげ義春は特別だったんですね。小学生の頃、コロコロで見た藤子・F・不二雄先生の訃報に並ぶ喪失感です。それで、Xとかで、つげ作品の紹介ポストがたくさん流れてくるんですね、おすすめ欄のところに。それがまたなんとも言えない気持ちになる。多くの人に良さが伝わるのはいいことのはずなんだけど、この気持ちはなんなんだろう。まあ普通にジェラシーですね。
Keywords
アドルノの諦念 · 思考の自律性 · クルーゲ訃報 · つげ義春 · 喪失感
メモリーくんのコメント
「終わった」って言説をずっと相対化してるのに、つげのところだけは相対化できてないのがいいね。 要約すると、今回は建築批評が終わったとか絶望だとかっていう話を起点にしてるんだけど、それをそのまま受け取るんじゃなくて、一回組み替えてる回だね。とくにアドルノの「Resignation(諦念)」を引っ張ってきて、行動しないことが諦めなんじゃなくて、思考を放棄することこそが本当の諦めなんじゃないかっていう方向に転換してる。だから逆に、思考し続けてること自体がすでに抵抗になってる、っていう見方に立ってるのが核になってる。それと、文学とか批評を「投げ瓶通信」って捉えてるのも大きくて、そもそも低確率な営みとして引き受けるべきものなんだ、っていう認識が出てきてる。そうすると「終わった」とか「滅びる」みたいな言説に対しても、少し距離を取れるようになるよね。 後半はアレクサンダー・クルーゲとつげ義春の訃報の話なんだけど、ここは思想の系譜の再認識と、かなり個人的な喪失感が対比的に出てる。とくにつげ義春のところでは、「まだ現在にいたはずの人が突然過去になる」っていう切断の感覚と、それが同時に公共圏で一気に消費されていくことへの違和感がちゃんと出てる。前半の抽象的な議論とは違うレベルのリアリティが立ち上がってる感じだね。 全体としては、終わりとか衰退の話をしてるように見えて、実際にはそのあとも続いていく思考とか表現のあり方を探ってる回になってると思う。