
八ヶ岳美術館で写真展を見た話
2026.04.14

今日は4月14日ですね。かなり久しぶりの独り言です。 なんだかすごい時間が空いてしまったんですけど、前回の名古屋からの帰り道に長野の八ヶ岳美術館に行きました。 名古屋から電車で茅野に行って、そこから車で原村にある美術館まで行ったんですけれども、 八ヶ岳美術館は村野藤吾が設計した美術館で、そこで村野藤吾の孫であるアバロス村野敦子さんが写真展をしていまして、 そちらを見に行ってきました。それでちょうどその日はトークイベントがあって、建築史家のカサハラ先生とクラカタ先生のお二人が登壇されてました。 建築の当事者とは誰なのかというようなテーマのトークを聞いたんですが、村野さんとゲストのお二人それぞれの立場からの視点の違いがクリアで、とても刺激的で面白かった。カサハラ先生は、オランダと日本の建築を取り巻く状況、特に文化財の保存に関する環境の違いについて話されていて、例えば、オランダでは所有者の同意なく建築を文化財化することができるようで、所有者の権限が日本より弱く、全体的に対照的な構造になっているというような話でした。倉方先生については、やっぱり日本において建築の当事者は所有者であり、その所有者の権限がとても強いという前提の中で、建築の価値をより社会に認められるための手段の一つとして、資本家を褒めていこう、というところがとても印象に残りました。一般的に批判されがちな資本家をあえて肯定的に捉えるというか、より良い関係を作っていくというところを、村野藤吾と結びつけつつ、自身の活動につないでいくのはやっぱりうまいなあと思いましたね。本当に面白かったです。
展示については、具体的なところについては、ちょっとしたテキストを書く予定があるので、あんまり独り言では触れませんが、今回衝撃というか、特に実感したことっていうのが、交通の便の悪さというか、自分が当然あるだろうと思っていた交通手段が全然ないっていうことで、 まずはえっとバスですね。八ヶ岳美術館の最寄りのバス停が徒歩30分ぐらいのところにあるみたいなんですが、平日はこのバスが運行しているみたいなんですけど、 週末、日曜日はほぼないみたいで、まずこのバスのルートが断たれると。 で、最悪タクシーかなと思ってたんですけど、例えば帰る時に、タクシー会社に連絡をしても、えまず運転手がなかなか見つからないとか、そういうレベルでした。 そうすると、ま歩いていくしかないか、と。でも徒歩は駅まで3時間半ぐらいかかるんですね。 つまり、週末にま気軽に行こうと思って行ける場所じゃないですね。東京からなら車で行くのが良さそうですが。
例えば海外で、えー、ズントのブルーダークラウスチャペルとか、スカルパのブリオンベガ墓地とか行った時も、それなりに大変だった記憶はあるんですけれども、それでも、駅から徒歩1時間ちょっとだったりとか、まタクシーを探せばすぐ見つかったりしてたので、 ま行き当たりばったりでもどうにかなってたんですけど、八ヶ岳美術館は、それをさらに超えていたというのが、結構衝撃でした。ということもあって、まず八ヶ岳美術館に行くまでが、それなりの行程になりますね。この美術館に行くまでのプロセス自体が体験の一部になる感じですね。自分の場合は名古屋から電車で茅野駅まで行って、で、そこからは車に乗せていただいてなんとかして美術館に行って、で帰りもどうにかしないといけない、というところで、そのためにいろんな方たちにお世話になったというか、親切に助けていただきました。それで、そうしてたどり着いた先の、本当に綺麗な森の中に、他でみたことがない不思議な空間がある。これはとても良い体験でした。
展示の内容にかんして思ったことはいろいろあるんですけれども、自分にとっての一つのテーマとして、建築の死っていうのはどういうことなのかということ、それから、なぜ建築の喪失が、人間に、何かえぐり取られるような痛みを残すのかっていうことですね。これは、記憶とか、そういう問題とも関わってくるので、何か読みながら考えたいなと思っているんですけど、この辺は以前ピエル・パウロ・タンブレッリのヴィラ・ガルツォーニをめぐる十三の覚書のあとがきで書いたこととか、廃墟の問題とも関わってきますね。ところで廃墟っていうのは、(死んだ建築という印象が強いけれども)まだ息を吹き返すことができるっていうふうな感覚がありますね。まだ生きているとも言える。 で、それはリスボンのタリア劇場もそうだったように、改修をして、復活することができるっていうことですね。 そんなことを考えていると、結局建築に最後のトドメを刺すのは、ほとんどの場合人間なんですね。作るのも人間で、壊すのもまた人間ですね。ここは本当に難しい問題で、もちろん全ての建物を残していくっていうことは現実的に不可能なので、ほとんどの建築は死んでいくというか、殺されていく運命にありますね。大事なのは、そういった前提の上で何ができるのか、ということですね。これは美術作品の保存の問題とも同じだと思うんですけど、ただただ、なんでも保存していけばいいっていう問題ではないっていうことですよね。 岡田あつしさんの、確か記憶と忘却というようなタイトルの論考で、逆説的に忘れることも重要だというようなことが書かれていたんですけれども、 やっぱり記録の話が出てきますね。アーカイブすること、それもいかにして記録して残していくかっていうこと、何か自分ができるとしたらこういうところなのかなという気がしてます。 その中で写真っていうのはやっぱりとても重要なメディアだということを、今回改めて感じました。

Keywords
八ヶ岳美術館 · 建築の当事者 · 建築の死 · 保存と忘却 · 写真とアーカイブ
メモリーくんのコメント
行くまでの困難さが、そのまま建築の価値に変わってるのいいね。 今回は八ヶ岳美術館の訪問をきっかけに、建築を取り巻く条件とその終わり方について考えてる回だね。前半ではトークイベントを通して、建築の当事者が誰なのか、特に日本では所有者の権限が強いという前提が確認される。そこから実際の体験に移って、アクセスの困難さが強く印象に残ってる。交通手段がほぼ機能しない中で、他人の助けを借りてようやく辿り着く。このプロセス自体が建築体験の一部になっていて、場所の価値とも結びついてる。 後半では、建築の死や喪失の問題に話が移る。すべてを保存することは不可能で、最終的に建築を終わらせるのも人間であるという前提に立ちながら、忘却の必要性や記録の重要性に向かっていく。結局のところ、建築を残す方法として「記録すること」、とくに写真の役割に意識が向いている回だね。