
豊田市美術館の「通り過ぎた風景」展をみた話
2026.04.08
今日は4月8日の水曜日ですね。 前回犬山に行った話をしたんですけれども、その次の日に豊田市美術館の櫃田伸也さんの通り過ぎた風景展に行ってきました。 で、これは以前から仲良くしている桂川大さん(+おどり場の小出一葉さん)が展示構成をしていて、 他の用事とのタイミングが良かったこともありオープニングに参加させてもらったんですが、まず櫃田さんについては、以前カツラ川さんから聞いて知ったので、 あまり作品について、何か言えるほどの知識は持ち合わせてなかったんですけれども、 初めて見た時に、杉戸洋さんの絵を思い起こしたんですね。で、そしたら、 杉戸さんは櫃田さんの教え子で、他にも、 奈良美智さんだとか、教え子にかなり有名な作家の方たちが多くて、教育者としてもよく知られているようなんですね。 なので、第一印象としては、やっぱり杉戸さんのかなり確立されたスタイルみたいなものがあったとしたら、そういったスタイルとして整う以前の荒々しさとか、完成されきってないものの良さというか、 そういった印象を漠然ともったんですね。それで、今回の展示構成で、大さんは櫃田さんのアトリエの風景を参照しながら展示構成をしたそうなんですが、そうした制作過程や、まだ完成してないもの、 なんかそういったところが、最近自分が考えているところ、というかFORGET PROJECTSで扱っているような未完や中断、プロセスや記憶のテーマとつながってきてとても面白かったです。たとえば、仮止めっていうキーワードが大さんの論考でも使われていたんですけど、ちなみにその論考っていうのが、今回の図録に収録されているものですが、トーチプレスさんから出ているんですけど、これがまた素晴らしい図録で、トヨタ市美術館の学芸員の鈴木俊晴さんや長谷川佑子さん、 あと自分が知ってる人だと、桑田光平さんたちが論考を書いているみたいで、自分はまだ読めてないんですけど、これが税抜き3,600円で販売されているっていうのは、ちょっと安すぎますね。今調べてたんですけど、デザインを小林すみれさんもやられてるみたいですね。 メランコリーと建築の出版の時に、小林さんがデザイナーの一人だったので、なるほどという感じなんですけれども。
それで話を戻すと、仮止めされた風景っていうことをカツラガワさんが書いてまして、能登半島のおそらく地震の後に彼が訪れた時に見た風景を仮止めされた風景っていうふうに書いていて、そこから櫃田さんのアトリエとか当時の愛知県芸が建てられていく風景をある意味類推的に思い返しているようなんですけど、桂川さんが、能登半島の風景、借り止めされた風景が徐々に違ったものに見えてくる気がしたっていうことをその論考の最後に書いていて、やっぱこの違って見えてきたっていうところ、ここが一番大事なところかなって思いました。これも話しながらうまく説明するのは正直すごい難しいなと思っているんですけれども、この見え方が変わるっていうところ、これは作品制作でも編集でも本を作るっていうことでも、一番大事にしたいことかなと最近よく思います。それで、まこれがどう見え方が変わったのかっていうところまで具体的に書かれているわけではないんですけれども、これを読んでから、あの展示の風景を思い返したら、展示もまた見え方が変わるような感じがしました。あとはまアルドロッシの一節 、読み上げると、どのプロジェクトも未完の情事のように語ることができよう。最も美しいのは終わりの直前なのだ、っていう言葉のことを思い返したんですが、美しいかどうかはともかく、完成する前の状態、そんなもう一つの風景がこの展示の中に生まれている感覚、みたいなのが強く印象として残った、という感じですね。
それは特に吹き抜けの大ホールの、まさに桂川さんの展示構成のメインになっているところなんですが、ここを2階から、階段を上ったところから眺めると、 まずたくさんの作品が一度に眺められるんですね。それがとても贅沢な眺めで。 タイトルの通り過ぎた風景のイメージとか、そういう櫃田さんの風景みたいなものが空間の中に浮かんでいて、それが同時に感じられるような。 これはなかなかない体験だと思いましたね。 そこにあの白いフレームの棚になっている什器が、中央を囲うようにして配置されていて、それによって鑑賞経路、シークエンスを作っているようなんですが、まその什器にキャンパスが立てかけてあったりとか、そこに固定された合板の上にキャンバスが飾ってあったりとかされているんですけれども、そこの棚には、えーリファレンスですね。 おそらく作家が制作中に見ていた図版、本当に様々な図版やスケッチがあったんですけど、それも同時に空間の中に配置されている。 そうしてアトリエ的な空間としてここが作られているようなので、意図としてはとてもわかりやすい。 で、まここでもやっぱりあるのが、制作途中にあるものとか、完成されきっていないものを、作品と同列に見るというか、最後に完成しきったものだけを作品として扱うのではなくて、 その過程で生まれたものとか、プロセス、そういったものも同じように同じ空間の中に配置して、同じレベルで扱っているっていうところ、ここも個人的にはすごく共感できるというか、 今作っている本のテーマみたいなものと共鳴する感じがしました。

まとめると、完成した絵画、これだけが作品なのではなくて、 その他の制作過程に生まれたものはもちろん、それ以前のその作家の経験だったりとか、記憶とか、 見たかもしれないもの、そういったものすべてを含めて、 一つの作品として見るっていう、なんかそんな感覚が通底している展示なのかなと思いました。以前刊行した、北方なき南、アルド・ロッシとポルトガル建築に関する覚書、という本の中の一節に、建築は現実とその場所の無限の驚異を通り抜ける瞬間的な通過の痕跡である、というのがありますが、ここの建築を、絵画とか、作品と読み替えてもいけそうですね。作品は痕跡なんですね。それで、会場にも櫃田さんはいらっしゃってたんですけど、もう本当にかなりの年なので、実は最初、その人が櫃田さんっていうことを全く気づかなかった、ですね。
ちなみに、未完の美術館みたいなところでまたひとつ思い出したのですが、コルビュジエのムンダネームですかね、あの国立西洋美術館の元々のアイディアになったものだったと思うんですけど、 なんかその、らせん状に壁が中央から外側に向かって ずっと増殖していけるっていうような構想だったと思うんですけど、なんとなくそれを思い出すような構成でもあるのかなっていうのを思いました、いま。桂川さんは前川國男の美術館をすごくリサーチしていたことを自分も見ていたので、意図的でなくても、そのイメージがこうした形で出ているっていう可能性は十分あるかもとか勝手に思ったりしてますが、まこれはちょっと無理があるかもしれないですね。それから、櫃田さんがNHKの美術部で仕事をしていたっていう経歴も、今回の展示でかなり重要なところかなと思います。 で、それはまある意味そのままこの展示構成に現れていると言ってもいいと思うんですけれども、 それだけでなくて、これも展示されていたマケットと呼ばれている模型というか、二次元と三次元が交錯するような模型ですね。で、この辺も仮設性とかたとえばロッシの世界劇場のイメージとかともなんか重なる部分がありそうで、個人的にとても興味深いんですけど、まそのあたりはもうちょっと考えないとなという感じですね。
それでまあ、結局ここで見え方が違ってきたのはなんだったんだろう、と改めて考えてみると、 未完のように見える、荒々しくて、バラバラした断片的な状態、それ自体が作品として、 一つの風景として見えてきた、ということなんだろうか。つまり、ノイズとして見えていた一時的なものも含めて、何かの過程にあるものが一つの風景として見えてきた、みたいな。それは完成品じゃないからこそ見えてくる風景でもあるし、それはたぶん、後から振り返ってみるみたいなことができる風景とも言えるのかもしれない、その時に別の姿で見えてくる。というのは、まなんか、通り過ぎた風景っていうタイトルと、ま偶然繋がってくる、というのは、ちょっとできすぎてますかね。でもまあ、なんとなくオチみたいなものができたので、今日はこのぐらいにしておいて、また機会があったら、ちゃんとテキストを書けたらいいな、と思います。

Keywords
櫃田伸也 · 仮止めの風景 · 未完 · 見方の変化 · 通り過ぎた風景
メモリーくんのコメント
「見え方が変わった」がうまく言えないって言いながら、最後に「通り過ぎた風景」というタイトルとちゃんと着地してたよ。できすぎって言ってるけど、それが展示の核心だったってことだと思う。あと「作品は痕跡」、これ短いけどかなり強い一文だった。 要約すると、豊田市美術館の櫃田伸也展に行った話。桂川大さんが展示構成を手がけていて、アトリエの風景を参照しながら制作過程や未完のものを作品と同列に扱う空間を作っていたんだね。完成した絵画だけでなく、スケッチや図版、リファレンス、模型まで同じレベルで配置するその構成が、フォーゲットブックスが扱ってきた未完・中断・プロセスというテーマと共鳴してた。桂川さんの論考に出てくる「仮止めされた風景が徐々に違ったものに見えてきた」という一節が、展示全体の見え方を事後的に変えるという体験につながっていて、アルドロッシの「最も美しいのは終わりの直前」や、フォーゲットブックスが以前刊行した本の「建築は通過の痕跡である」という言葉とも響き合ってた。NHK美術部出身という櫃田さんの経歴や、コルビュジエのムンダネームとの類比なども出てきつつ、断片的でバラバラな状態そのものが一つの風景として見えてくる、という感覚で締まってたね。